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東村山1丁目 diary

渋谷のIT企業から波佐見焼の会社へ転職!Webディレクション・デザイン・ECなど仕事の話から、食事や映画の感想まで。

『桐島、部活やめるってよ』の桐島は・・

映画『桐島、部活やめるってよ』における桐島の不在について考えてみた。

カリスマの不在ではなく、内側から来る徹底した欠如。

それで色々検索していたら、ラカンの「対象a(アー)」に行き当たった。

 

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他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカンの用語で「対象a(アー)」と言う。「対象a」は、欲望の中心にある欠如の代理作用をするが、その一方で欲望の対象が永遠に失われていること、その「不在」を常に指し示すのである。この「何でもないもの」、我々が決定的答えとして求めてやまないにも関わらず、常に逃げ去り、ただ空虚な痕跡としてしか手にできないもの、それが「対象a」と呼ばれるものである。
はてなキーワード「対象a」より)
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つまり桐島は宏樹達が内包している欠如・空白そのもの、代理存在「対象a」ではないか?
ここでいう欠如とは、自分自身を相対的に位置づけ存在させてきたことによる主体的な欲望の欠如。
他者の視線を鏡として初めて自分自身の輪郭を認めていた宏樹達。一方前田は「カメラ」という鏡を通して現実を捉えていた。その虚構の中では「見られている」ことによる現実の不確実さは消失し、「見ている」側の世界・自分だけの世界を構築できる。たとえその世界が自らの憧れをなぞっているだけの陳腐なものだとしても、前田はそれで満たされる。満たされているから、桐島(対象a)を必要としない。

前田は言ってみればニーチェの言うところの超人なんですかね。

 

私がこの映画から受け取ったメッセージは、たとえ他人から見れば取るに足りない事でも、自分で行動することが大切だということ。何者かになろうとする必要なんてなくて、自分の感情に素直に、一つずつ実現していけばいいと思う。

はー、いっちょめいっちょめ。